オステオパシーについて- About OSTEOPATHY

オステオパシーの誕生・発見

オステオパシーは、アンドリュー・テイラー・スティル(1828-1917年、以下A.T.スティル)の生い立ちにまつわる希有な経験から、独自の医学研究と実践を繰り返すことで体系化された自然医学です。

A.T.スティルの生い立ち

A.T.スティルの父、エイブラム・スティルはキリスト教の牧師であり、医師でもありました。

牧師としての布教活動に加え、医師としての仕事の関係上、スティル一家はアメリカ中南部を転々と移住する生活を繰り返します。

そういった移住生活の中、スティル一家は、現地の先住民であるネイティブアメリカン(いわゆるインディアン)と深い交流を持ち、彼らから精神性や思想において大きな影響を受けるようになります。

エイブラムは、インディアンから当時の西洋医学では注目されていなかったハーブを使った治療や、精神と身体との関係性を学び、自分の医業にもそれを積極的に取り入れ実践していました。

またA.T.スティル少年も、先住民であるショーニー族の言語を深く学び、頭ではショーニー語で考え、それを英語に変換して会話するというほど根底からインディアン思想が浸透していました。

その時のショーニー族から得た教えは、後に誕生するオステオパシーにも大きく影響を与えました。例えば「患者を診るときは喋り過ぎず、じっくり観察する」といった手法も、幼少期からの先住民との交流の中から学んだ教えに由来しています。

自然の法則

インディアンとの交流のなかで、A.T.スティル少年は、人間もまた自然の中の一部であり、例外なく自然の法則に従っているという事を経験の中で学びました。

例えば、「小川のせせらぎ、そこには滞ることのない連続的な流れ(循環)があり、淀みなく循環されて栄養されている。もし小川が流木によってせき止められる事があれば、下流では水が濁り、泥が留まり、淀む。小川が元の清らかさ取り戻すためには循環とともに栄養が必要であるが、人工的にそれらを注入することできない。しかし、淀みの原因であった流木を取り除くことで、自然はまた元の流れ(循環)を再生し、小川が栄養に満ちて清らかな流れ(健康状態)を取り戻すのである…」というようなことです。

人間が病気になること、そして健康を取り戻すことも、これと全く同じように自然の法則に従うという事を学び、その学びこそが後に発表されるオステオパシーの原理・原則の礎となっています。

オステオパシーの誕生

成人したA.T.スティルは、農業で生計を立てる傍らで、父の仕事でもある布教活動と医師業も行っていました。

しかし、わずか数週間のうちに流行病で実の子を3人も亡くすという、医師でありながら我が子を救えなかった悲惨で辛い経験から、当時の伝統的な医療を疑問視するようになり、それが後のオステオパシー発見の大きな原動力となります。

そして、1874年、A.T.スティルは啓示を受けました。それは、これまでの医療を改革する全く新しいアイデアでした。A.T.スティルは、しっかり患者を観察することで、どんな病気の患者にも必ず筋・骨格系の異常が存在して、その影響で循環系の問題を引き起こしている事に気づいたのです。

彼は手技テクニックを開発して筋・骨格系の異常を調整することで健全な循環系を取り戻せることを経験則で学び、それが幼少期の経験から得た「自然の法則」と結びついて体系化されたのがオステオパシーの創設となります。

1885年、ギリシア語のOSTEON(骨を意味する)とPATHOS(病むことなどを意味する)を組み合わせて、「Osteopathy:オステオパシー」と命名しました。

オステオパシーの発展

A.T.スティルはこれまでにない新しい医学の治療モデルを発表するも、その考えは当時の社会には簡単には受け入れられず、所属していたキリスト教会からは除名され、医療界からも異端児・狂人扱いされてしまい、家族は引っ越しを余儀なくされました。

彼は治療をしながら各地を渡り歩き、最終的にミズリー州カークスビルへ辿り着きます。

A.T.スティルの新しい治療モデル「オステオパシー」は、キリスト教会や医療界から弾圧され異端視されたのですが、その一方で治療を受けた患者からは評判が評判を生み、全米中から彼に治療してもらいたいという患者が滞在しているカークスビルへ押し寄せ、当初何もなかった土地に駅やホテルなど大きな街が出来るほどの反響となったのです。

1892年、A.T.スティルはカークスビルに初めての学校、ASO(アメリカン・スクール・オブ・オステオパシー)を創設し、その卒業者にはD.O.(ドクター・オブ・オステオパシー)の称号を与えました。

ASOはその後、単科の医科大学であるKCOM(カークスビル・カレッジ・オブ・オステオパシー・メディスン)を経て、現在は総合大学ATSU(A.T.STILLユニバーシティ)へと発展し、オステオパシーの大学としては世界一有名で権威のある難関大学、そしてオステオパシーの聖地として認知されています。

1973年には全米各州においてオステオパシーが医学として認められたことでM.D.(メディカル・ドクター)と同等の地位を与えられることとなり、投薬や手術も行うことが可能となりました。

オステオパシーの伝播

アメリカ合衆国で生まれたオステオパシーは、海を渡りヨーロッパへ広まったのですが、その事実は、スコットランド人であるJ.M.リトルジョンの功績を抜きにして語る事はできません。

J.M.リトルジョンは、アメリカ移住後に患者としてA.T.スティルの治療を受けたことがきっかけでオステオパシーと出会いました。

そして、ASOの第1期の学生としてオステオパシーを学び始める傍らで、ASOの初代生理学部長に就任するほど生理学に精通していました。彼は、ASO卒業後に解剖学の観点で学んだオステオパシーを生理学主体で捉え発展させていきます。しかし、根本的な概念の相違もあり、A.T.スティルと袂を分かち母国であるイギリスへ帰国し、1917年にロンドンでB.S.O(ブリティッシュ・スクール・オブ・オステオパシー)を創設しました。

その後、オステオパシーは大西洋を渡り、イギリスを起点としたヨーロッパ諸国にも広まりました。更にイギリスにおいては、1993年にアメリカ合衆国以外で初めてオステオパシーが国に認可されました。そして名だたるオステオパシー施術者(オステオパス)がヨーロッパからも多く輩出され、現在もなお、世界のオステオパシーの寄与発展に大きく貢献しています。

<引用および参考文献、資料>
・「いのちの輝き」
・「シャーロットウィーバー:頭蓋オステオパシーのパイオニア」
・「JTOC専門過程 オステオパシーの哲学(2015.4.10-12)講義」
・「JOPA JasonHaxton氏公演(2014.5.3)」

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※D.O.(Diploma of Osteopathy)、JTOC、日本オステオパシープロフェッショナル協会(Japan Osteopathic Professional Association)は登録商標です。
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